昭和48年12月28日 
第45号
四十八年を振り返って

 心友会で教えていただいた事を中心に、四十八年を振り返ってみると、とくに二つの事がどうにか自分なりに理解でき、実行し続けていけそうな気がするのです。その二つの事とは
(一)人は自分で生きているのではなく生かされているという事、
(二)愚痴るな、誹るな、斗うなの教えの事です。
 (一)については心友会に入会する以前には考えて事も、気にした事もないのが正直なところです。神を信じ人間の生を考えてはじめて実感としてとらえる事ができました。
 先生も言われるように「人は翌朝、自然に眼が覚めて、生きているのが当然ではない」と思うのです。手足は自分の思うように動かせたとしても、誰が自分の生の根源を自分で支配する事ができましょうか。
 自分の心臓が翌朝も正常に作動している保証は考えてみれば、どこにもないわけです。ただ、この事は死が多くの場合病い、年齢、事故等によって一定の過程を伴って近づいて来るので、 前の日元気ならば翌朝も元気に働けると無意識に体験して来て、それが今までずっとそうであったから、我々は死を意識しないだけだと思うのです。先日の愛知蔵相の死などまったく人の 明日の生のはかなさを思い知らされるようなものでした。
 この事はなにも被害妄想的に死をおそれるというのではなく、逆に今日の生を感謝する気となります。誰に感謝するかは人の自由で、かかりつけの医者という人もあれば、両親という人もあるはずでしょうが、 僕はやはり「神によって生かされている」事を神に感謝し、毎朝のおまいりの時に心にとなえております。
 (二)の愚痴るな、誹るな、斗うなは(一)の事が理解できたように、頭で「何故に・・・」を理解する事は容易に出来ても、その実行は大変です。僕がかろうじて最近出来るようになりかけてきたと思えるのは 「斗うな」の一つです。特に多かった車の運転中の「斗い」は少なくできるようになりました。
 愚痴り、誹りにいたってはまだまだ遠いかなたの事、ついやってしまいそうな時も、「言わない方がいい」等を自覚していて、やってのけるありさまです。この事は来年の宿題です。
 ただ、このような大国様の教えを考える時、いつも身近に大国様がいて下さって、いつも見ていて下さるということを感じます。今年も残り少なくなりましたが、残す日々に来る年も 生かしていただけるのなら神に見られている事をけっして忘れる事なくすごして行くつもりです。
 本年も皆様には神殿で、またお国帰りの時も大変お世話になりました。どうぞよいお年を、またどうかよろしくお導き下さいますようにお願いいたします。


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