昭和48年11月28日 
第44号
神様のふるい

 去る十月二十八日、秋の大祭が雨にもかかわらず、盛会のうちに執り行われました。今年は春秋両度の大祭が雨に降りこめられると云う、心友会にとってはまったく前例のない雨づくめの年となりました。
 今まで、大祭当日の朝、雨が降っていて、お祭りが心配だということが一度ありました。それでもお祭りがはじまるまでには、すっかり雨もあがり、何の支障もなく、大祭を行うことができました。
 これまで降られたことのない、また降っても止んで、上首尾にお祭りが執り行えた心友会の大祭で今年に限り、春も秋も両度にわたり、雨に降りこめられ、会員の方々には、特別、 苦を果たさなければならなかったと云うことには、それなりの意味のあることです。
 私達はザアザア降りそそぐ雨によって、神様からためされたのです。私達の信仰が御都合主義の、あるいは御利益主義のいいかげんなものであったり、そうではないにせよ、信仰が薄いものであったりすれば 「今日はこんなひどい降りだから、お詣りに行くのはやめよう」あるいは「またの機会にお詣りすればいいじゃないか」と云うことになるでしょう。
 神様はこういう形で、真の信仰から逸脱した人々、また信仰の点で確乎としたものを把んでいない人々をふるいにかけ、真の信仰に篤い人々だけをふるい分けていらっしゃいます。
 真の信仰を把んでいらっしゃる方々には、雨の中をお詣りすることも苦でなく、雨にも甘んじてお詣りできるはずです。
 真の信仰の出発点は神様によって生かされていると言うことを認識しそのことを神様に感謝申し上げる点にあります。神様が一人の人間を生かし、その上、籠と恩寵を垂れて下さっているということは大変なことです。 それをありがたいと感ずる時、神様に感謝のお祭りを仕えさせていただくのに、雨がどうして苦になりましょう。
 神様の御苦労のことを思えば、雨が降ろうが、雪がふろうがそんなことにかかわりなく、自らの身体を御神前まで運んで、礼を尽くすと言うことで感謝を形にあらわすのに何の苦がありましょう。
 神様は今の世の中にそれだけの真心のある人々を求めていらっしゃるのです。物質文明の世の中で、心が忘れられ、目に見えるものだけがすべてという風潮がこうじていったら、 自分さえ物質的にめぐまれ、自分さえよければ良いという考えがますます巾をきかせるようになり、世の中はますます殺伐として、しまいには生きるに値しないようになってしまうかもしれません。
 神様はそんなことをお悦びになるはずも、お望みになっているはずもありません。
 神様はそれとは逆に、私達がもっと目に見えないものを重んじ、目に見えないものを通じて、もっと幸せになってほしいとお考えになっていらっしゃいます。
 それには目に見えないもの、つまり心に心する人々が少しでも多くならなければなりません。目に見えないものを重んずる真心の日とは神様によってふるい分けられ、本当の幸せを把んでいく人々でしょう。
 そして、そういう人々が多くならないかぎり、物質文明に対する精神文明はまさに風前の燈火同様のものとなってしまうでしょう。こういう事態に対し、神様は私達が本当に真心の信仰をもっているかどうか、 おためしなり、多くの人々が真理の信仰にめざめるよう望んでいらっしゃいます。そういう意味で、神様は今年の大祭に雨のふるいをもって、私達の信仰をためされたのです。 この機会に、私達は謙虚に自らの信仰のあり方を反省したいものです。


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