昭和48年10月10日 
第43号
真理の信仰

 現代は人間が神や仏をあまりにも自分に都合よく利用しようとしてきたために、真理の信仰が失われつつある時代だと言っても過言ではないと思います。その結果として、とくに若い人たちは 「信仰」と言うとなんだか不合理な、うさん臭いものとして避けようとしてしまいます。
 あるいは「信仰」と言うと年寄の気休め程度にしか考えていない人たちが多いものです。それは多分に信仰は極楽浄土を願う年寄が最後によりすがるものだという固定観念から来ています。
 しかし、真理の信仰は決して不合理なものでも、うさん臭いものでも気休めにするものでもありません。それどころか、真理の信仰は私達の生きていくことの源泉となるものです。 ですから、むしろ生きる期間の長い若い人たち程、本当に神をつかみ、真理の信仰に目覚める必要があります。
 それではなぜ、若い人たちはじめ多くの人々にとり、信仰が不合理でうさん臭いものとなってしまったのでしょうか。
 それは一つには、信仰が単なる御利益信仰に脱してしまっているからです。病気や貧困や争いごとで悩んでいる人たちにとって、この神様を信じれば、この教えにはいれば、 病気やその他諸々の悩みは救われるでしょうと言われれば、そういうことで日夜悩み抜き、ワラをもつかみたい気持ちになっていればいるほど、そのような信仰が真理にかなっているかいないかなどと 云うことの見きわめもつかず、その気になってその神様を信じるかもしれません。さるいはその教えにはいるかもしれません。
 しかし、信仰ということはそんな安直なものではありません。信じますから、何々して下さいとはじめから神様に自分にとって誠に都合の良い条件をつけて、その結果を期待するというようなことを 神様がお聞き届け下さるはずがありません。
 人間でも、はじめからあなたにこれこれしますから助けて下さいなどと頼み込まれても、助けてやる気になれないのと同じ理屈です。かえって、不愉快になってそんな都合のいいことを 言ってくるような奴は二度と顔をみるのもいやだと言うことになるのと同じです。ただ、神様は人と違って目に見えないだけのことです。
 ここで問題となることは悩んでいる人、困っている人、迷っている人に、その悩みや苦しみ、迷いから救われたいのなら神様を信じなさい、信仰に入りなさいと「救い」という現世利益をだしに 信仰を勧めたりもっとひどい場合には、信仰を無理強いすることにあります。
 信仰は現世利益を得るためのものではありません。ですから、現世利益を強調した御利益主義の信仰は出発点からして間違っているわけです。
 真理の信仰の出発点は感謝にあります。それから悩みも、苦しみも、迷いもいっさいがっさいを自分がおすがりする神様に全托する、つまりおまかせするところに救いがあるのです。 「感謝」と「おまかせ」は信仰の二本柱です。
 「救い」という現世利益を期待する信仰はもはや信仰とは言い難いものです。「感謝」「おまかせ」の結果として「救い」が得られる信仰こそ真理の信仰というべきものでしょう。 こうしたことが説かれていないところに、現代、信仰が誤解されている最大の原因があるわけです。 


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