昭和48年3月28日 
第38号
お祓いについて

 神道のお祭りや儀式には、月次祭や大祭、地鎮祭や上棟祭、成人式や結婚式のどれをとってみても、必ず「修祓」つまりお祓いから始まっています。今回はなぜ、どのお祭りも お祓いから始まるのかということを考えてみたいと思います。
 お祓いそのものについて考えてみる前にまず「お祭り」とはどういうことかと言うことから話していくのが分かりやすいでしょう。三十四号でお祭りとは「神様にしたいよりたい という私達の切なる気持ちを形に表した」儀式だということを述べておきました。「したいよりたい」ということは、言いかえれば、日頃の広き厚き御神徳に感謝する気持ち、 またそれまで同様、将来にわたっても厚き尊き御蔭を蒙らせて頂きたいという気持ち、そういう意味で、神様と一体になりたいという気持ちだといえます。
そういう気持ち、「真心」を形に表したのが「お祭り」なのです。
 だから、日本人にとって根元的信仰である神道では、昔から言挙(ことあげ)しないことが特徴となっていたわけです。例えば、自分に誰かに対して感謝する気持ちがあれば、 その人に「ありがとう」という事は言うまでもないことですが、その前に感謝を形にあらわす意味で、その人のところへ飛んで行って、自分に出来る事をさせて頂く、 つまり、形が、理が、行動が先に来るのが普通だと思います。古代の日本人はそういうものの考え方を持っていたわけです。
 信仰においても同じ事です。日本人は「真心」を「形」に表せる言い換えれば、「行動」で示せるすぐれた特徴を持った民族だということができます。
 お祓いも同じことなのです。私達は肉体を持って、この世の中に生きているため、知りながらも、また知らず知らずのうちにも罪を作って毎日毎日を送っているわけです。 私達はそういう存在ですから、全知全能で、絶対なる神様の御顔を仰ぎ見ることも、ましてやその御前に進み出る事も、とても恐れ多くてできないわけです。
 では、どうしたらそういう私たちが神様の前に進み出ることができるのでしょうか。それには、絶えず気がついた罪は反省し、懺悔し、時には贖罪しなければならないことは 言うまでもありません。しかし、それにもかかわらず、私達はそれと気づかずに日々、罪を犯して自分の霊を穢しているわけです。
 穢とは三十三号に書いておきましたが、憎しみや怒り、妬みや羨みのために心が歪み、その歪みが霊をもくもらせてみにくくしている状態の事です。そのような私達が無限で 絶対なる神様の前に進めるはずはありません。
 有能な人間にできることはせいぜい気がついた罪を反省し、懺悔し、贖罪することぐらいのことです。それ以上のこと、つまり気が付かずにいる罪や霊の穢れは、絶対なるお力を 持っておられる祓戸の神様のお力にすがって祓って頂く以外にないわけです。
 つまりお祭りの始めにある修祓という儀礼は、私達が気づかずにいる罪や穢を神様のお力で祓って頂きたいという切なる気持ちを形にあらわした儀礼なのです。
 それでは神道では神様の前に出る時、なぜそれ程までに罪や穢れを嫌うのでしょう。一つには神様を怖れ慎む気持ちからだと言えます。今一つには、神道の理想はよく 「明るく、清く、正しく、直く」つまり「明浄正直」という言葉で言い表されています。そいういうわけで、清潔でないこと、つまり穢れは忌み嫌われるわけです。
 言い換えれば、神道ではその理想とするところからして、お祭りをするにふさわしい人間の姿、つまり正常な人間の姿は明浄正直な人間でなければならないという根本的な物の 考え方があるからです。
 しかし、多くの場合、人間は穢れていて、お祭りをするのにふさわしくない姿となっています。つまり、正常からそれて異(け)がれて、お祭りで、神様と一体にはとてもなれない状態になっているわけです。 その異状な姿を矯正する理念を形に表したのがお祓いの儀礼だと言えるわけです。言い換えれば、修祓というのは、ともすれば、正常からそれがちな人間を神道の理想とするところへ 戻し正すという考え方を形で示したものなのです。
 そういう意味で、お祓いはお祭りの一番最初に来ているわけなのです。


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