昭和47年9月28日 
第33号
「鎮魂」について

 大国様から、或日突然、「鎮魂の行をせよ」との御霊示を頂き、どのようにしてするものか、その様子も不思議にも、私の目にうつして教えて頂きました。
 御神前でお燈明一本のあかりだけで電気を消し、男子は胡坐、女子は正座でおへそのあたりに、手をかるく組み、背骨をまっすぐに姿勢を正して、丹田に力を入れて息を 整えます。そして、一時間その姿勢をくずさずにいるのです。同じ姿勢で、身動きもせず、背骨をまっすぐにして、坐るということはなかなか苦しいものです。 最初は肉体的苦痛の意識だけが働き、たえかねて、もそもそ動いたり、息づかいも荒く乱れ苦しい様子をする人もいますが、静まってくると、部屋の外の色々な音にも、 聞こえながらも意識をとらわれず、肉体的な苦痛も同じようにありながら苦痛に意識をとらわれない静かな「タマシヅメ」の状態に入れます。
 一見、形は禅宗の「坐禅」に似ております。しかし根本的に大きなちがいがあります。坐禅の場合は、あくまでも自己の心を中心に、それの探求にありますが、 「鎮魂」は、自己の心と、心の根元である神とのつながりを得る、「神と我との一体感」を意識でなく知恵でなく、吾が心で感応することで、心の充実と共に飛躍につながります。
 辞書には、「魂を鎮めること」「たましずめ」とだけ書いてありましたが、生きているもの、死せる者の魂のシヅメだけではないということを、うまく云いあらわさないでもどかしく 感じている折、朝日新聞に「鎮魂の原点」と題して、京大の上田正昭先生の記事があり、我意を得たりと共感を覚えました。かいつまんで、お伝えいたしますと。
 『鎮魂という言葉のひびきに人は死の静寂を感じる。事実、死者の葬送のさいにも鎮魂は行われていた。
 しかし、古代人の人々における鎮魂とは、枯渇する魂をふりおこして、衰微する魂をよみがえらす、あらわざであった。
 いわるる内なる自己の魂を、招魂によって外に放ち、外なる魂を招魂によって内にこめる。タマフリとタマシヅメの交響である。これはともに、魂を生霊と感知した古代人の 認識にもとづく。(注 神と吾との一体感を表していると思います。)
 鎮魂の時と所は間である。そのおりに魂が充足され、それを契機として、次の段階への飛躍が用意される。
 間はただ、うつろな時間と空間ではない。実は、生命の蓄積される、おりめなのだ。』とおっしゃっています。
 この場合の間が私達の行った鎮魂の行です。ただ、自分の魂の安らぎのためばかりであってはいけません、神と人との対立も、断層もないもの、神と子という安らぎの一体感の 上に更に明日にむかって生命を躍動させてゆく生甲斐を感じるものでなければ古代人のミタマフリの意識が生かされないと思います。
 たとえば、各家の幸せを願い、いやさけを願って亡くなられた先祖の霊に対しても、例を慰めるためとか供養しているのだという思い上がった自己満足の祈りであってはいけないと思います。 させて頂くという感謝と共に、亡くなった方たちの真実の神性の魂を生かして、残された者がそれを引き継ぎ、一日日々を充実させて、育成してゆく生活こそ、真の供養であり唯神の教えです。
 私達の肉体は滅び、次の時代の子孫に、またその真の魂のひきつぎが行われるのです。神〜自分〜子孫と、絶えることなく真実にむかって自然がうごき、変化しつつよりよく育成されてこそ、 社会、世界、地球上の平和があり、いやさかえがあり、真の文明が発展して行くことになります。魂を忘れた現代こそ、私達は、ミタマフリによって、渇れた魂をふるい起こし、 ミタマシヅメによって、心の安らぎを得て、一日の生活の充実と、飛躍する必要を、しみじみと感じました。
 どうぞ皆さん、マンネリに成り易い毎日の祈りの中にも、このことを生かして下さるようお願いいたします。
(四五・七・八第一四号の心友会だよりよりの抜粋)


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