昭和47年6月28日 
第31号
真意を伝えるということ

 自分の気持ち、真意を伝えるということはなかなかむずかしいものです。”話し手”、”受け手”の相互の気持ちのふれあい方、考え方にづれがあると誤解や曲解がすぐ生じるからです。
たとえば、大国様のお徳に接して感謝しても、その感激の”わ”を他の人にも拡げてゆくのはたいへんなことです。”受け手”が心友会の会員の方ならそのままの気持ちが伝わるかも しれませんが、他の宗教をおもちの方、無宗教の方に完全に伝えてゆくのは骨がおれるでしょう。まず”受け手”が聞こうとする気持ちがなければ話は進みません。
 先生はよく新しい方などに、「心友会では強制することはしません、心から集ってきたい方だけいらっしゃってください。」といわれますが、これは”受け手”が、こちらの 善意をまず聞こうとする気持ちがあるかどうかを確認することになります。相手にその”気”がないのに話を進めても全くの徒労になってしまい、しかも神のお徳を 結局はけがすことにもなってしまうからです。
「真と理が一体になって、やらせていただく。」というお話もよく先生はなさいますが、その実践の場が日々の生活であり「伝える」ということだと思います。自分の気持ちを 言葉であらわされる方もいれば、不言実行される方もいます。言葉少なでも感動することもありますし、いくら美辞麗句を聞かされても疑いが生じる時もあるでしょう。 よく新聞などで”世代の断絶”とか”コミュニケーションが皆無だった”などの見出しがでますが、これは日々の生活の中で真意を相手に伝えるのがいかにたいへんなことだと いうことのあらわれです。夫婦間の対話、親と子、兄と弟、嫁と姑、恋人同士の間でたがいの気持ちのふれあい方、相手を受け入れようとしているか、こちらの気持ちだけを 押し付けていないだろうかなどのさまざまの見方もでますし、また同時に自分の信じている大国様に対しても、”き”の持ち方がいま一度問い直されることでしょう。
 社会は人と人とのふれあいでなりたっているからこそ、「伝える」ということが神に対する自分の気持ちのあらわれる、実践される場だといえます。真理一体になって、 惟神(かんながら)におまかせして働きかければ、知らず知らずに”わ”が拡がってゆきます。日々の生活の中で、自分は不幸だと思っている人もいれば、全てを「苦の果し」と 思って惟神(かんながら)に、現象にとらわれることなく生活している人もいます。
 真理一体になって、させていただくという心でなにごとにもはたらきかけてゆけば、自然に体もついてくるし、神のおはからいも動いて、人の力では不可能なもので 可能にしてしまうのではないでしょうか。
 このように、真理一体となって、惟神(かんながら)に、大国様のおはからいにおまかせしてやらせていただいていれば、自分の真意を神に、また人に伝えるのに美辞麗句もいらなければ、 いいわけすることもなしに、正確に迅速に伝えられ、それによって自然に人と人とが輪になって日々のくらしがなってゆくと思います。
 真意を伝えるということは、大国様のお徳を真理一体となって日々生活の中に生かしてゆくことだと思えるようになったきょうこの頃の神殿の生活です。


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