昭和45年7月8日 
第14号
「鎮魂」について

 大国様から、或日突然「鎮魂の行をせよ」との御霊示を頂き、どのようにしてするものか、その様子も不思議にも、私の目にうつして教えていただきました。
 早速、先月の11日〜15日の5日間、有志12名で、「鎮魂」の行を致しました。
 場所は、大祭の時、お借りした近くの氏神様の社務所を、5日間お借りして、夜7時半に集合し、たたみふきから、雑巾がけのお掃除をして、八足にひもろぎを立て、祭壇を設け、8時より致しました。
 お燈明1本のあかりだけ、電気を消し、男子は安座、女子は正座で、おへそのあたりに、手をかるく組、背骨をまっすぐに姿勢を正して、丹田に力を入れて、息を整えます。
 そして、10時まで、その姿勢をくづさずするのです。折り悪しく雨天つづきでしたが、皆さん、遅刻者一人なく、又、落伍者も一人もなく、よく苦しい行を果たされました。二時間と一口に申しますが、同じ姿勢で、身動きもせず、背骨をまっすぐにして、坐るということは、苦しいことです。
 第一日目は、肉体的苦痛の意識だけが働き、たえかねて、もそもそ動く人や、息づかいも荒く、乱れ、皆苦しい様子で、「たましづめ」どころのさわぎではありませんでした。
 けれど、第三日目から、外の雨の音、カチカチという時計の音、蛙の鳴く声、車の走る音にも、聞こえながらも意識をとらわれず、肉体的苦痛も同じように、ありながら苦痛に意識をとらわれない、静かな「たましづめ」の状態に入れました。
 養老令の「令義解」は、鎮魂の事を、「離遊の運魂」を招いて、身体の中府に鎮む」こととみなす。とかかれているそうです。
 全員とはゆきませんでしたが、3〜4人が、そのような状態になりました。
 四日目は、全員がある瞬間、その状態になれました。五日目は、「自己の魂に生命の力を与える」又「天地自然の魂に帰一する」もっとわかりやすく云いますと、「神と我との一体感」を意識でなく、智恵でなく、吾が心で感応できる様になりました。
 五日目の行を終ってから、奇特な方の持参した赤飯をいただき、御神酒で乾杯をし、それぞれの感想を話し合いました。
 各自の表現方法はちがいますが、「どんな辛いとおもうことも、やる気をだせば、やれるのだ」という自分に自信ができた。「神が吾とともにいてくださる」という安心感が出た。「縁あって、この行ができたことは、神に選ばれた人間として、社会への使命感を感じた。」という、それぞれ意義があったことを感じていられるようでした。
 以上が「鎮魂」のお行のあらましです。ここで、鎮魂の真の意義について、みなさんと勉強してみたいと思います。
 一見、形は、禅宗の「坐禅」に似ております。根本的に大きく違いがあります。坐禅の場合は、あくまでも、自己の心が中心であり、鎮魂は、自己の心と、心の根元である神との一体感という、つながりがあり、心の充実と共に、飛躍につながります。
 辞書には、「魂を鎮めること」「たましづめ」とだけ書いてありましたが、生きてるもの、死せる者の魂のしづめだけではないということを、うまく云いあらわせないで、もどかしく感じている折、朝日新聞の六月二十三日の朝刊に「鎮魂の原点」と題して、京大の上田正昭先生の記事があり、吾が意を得たりと共感を覚えました。かいつまんで、お伝えしますと「鎮魂という言葉のひびきに、人は死の静寂を感じる。事実、死者の葬送のさいにも鎮魂は行われていた。」
 しかし、古代人の人々における鎮魂とは、枯渇する魂をふりおこして、衰微する魂をよみがえらす、あらわざであった。
 いわゆる、内なる自己の魂を、招魂によって外に放ち、外なる魂を招魂によって内にこめる。タマフリとタマシジメの交響である。それはともに、魂を生霊と感知した、古代人の認識にもとづく ※注(神と吾との一体感を顕していると思います。)
 鎮魂の時と所は、間である。そのおりに魂が充足され、それを契機として、次の段階への飛躍が用意sれる。
 間はただ、うつろな時間と空間ではない、実は、生命の蓄積される、おりめなのだ。とおっしゃっています。この場合の間が、私達の行った、鎮魂の行です。ただ、自分の魂の、安らぎのためばかりであってはいけない、神と人との対立も、断層もないもの、神の子という安らぎの一体感の上に更に前へ向かって、生命を躍動させてゆく生き甲斐を感じるものでなければ、古代人のミタマフリの意義が泣きます。
 丁度今月は、お盆月で、皆さんの家でも、ご先祖様の御霊を御供義なさいます。各家の幸せを願い、いやさかえを願って亡くなられた先祖の霊に対しても、霊を慰めるためとか、供養しているのだという思い上がった自己満足の祈りであってはいけないと思います。
 させて頂くという感謝と共に、亡くなった方たちの真実の神性の魂を生かして、残された者が、それを引継ぎ、一日一日を充実させて、育成していく生活こそ、真の供養です。
 私達の肉体は滅び、次の時代の子孫に、又その真の魂の引きつぎが行われるのです。神〜自分〜子孫と、断絶することなく、真実にむかって、自然がうごき、変化しつつよりよく育成されてこそ、社会、世界、地球上の平和があり、いやさかえがあり、真の文明が発展して行くことになります。魂を忘れた現代こそ、私達は、ミタマフリによって、渇れた魂をふるい起こし、ミタマシヅメによって、心の安らぎを得て、一日の生活を、充実と、飛躍する必要を、しみじみと感じました。
 どうぞ、皆さん、マンネリになり易い毎日の祈りの中にも、このことを生かしてくださるよう、お願いいたします。


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