昭和45年5月8日 
第12号
苦を果たす

 神への祈りは「反対給付を求めて、願い事をすることではない」。只一途な、誠の心だと、りくつでは分かっていながら、勝手な祈りをするのが人間です。
 それでも、大いなる愛の根元である神は、おきき及び下さる時もあります。
 それは、その人の素直さを愛されるからです。けれども、いつまでも幼児の如く、甘えてばかりいてよいものでしょうか?
 自分自身で早く気がつかないと大きな愛の試練を受けます。人間同士の場合には、あんまり依頼心の強い人には「甘ったれるんじゃない。放り出してやらせてみなくては駄目だ。」と見放されます。
 然し、神は放り出されることはありませんけれど、度々甘やかしてばかりいては、いつまでも一人立ちになれない。本人のためにならずとお考えの時は、きびしい試練を授けます。
 それを、神の大いなる「愛のむち」と受け止める心がまえが、こちらに出来上がっていなければなりません。試練を受けないようにするには、神のみ心にそう一日一日を過ごすことです。
 それには、肉体を持つ人間として、苦に感ずることも、いとわないことです。
 やれ「忙しい」とか、「金と暇がない」「体が疲れている」とか、目で見える現象にとらわれて、いろいろ知恵で思案して言い訳をしないことです。
 苦と感じることを果たして、只ひたすら、神に感謝の誠の心を捧げる時に、神が感応されて、大いなるご加護が動くのです。
 信仰とは、金と暇のある方のお道楽ではありません。神の分霊をいただいて、人間という形をあらわして、現世に生まれたからには、親神のみ心を、現象に顕すという自覚のもとに、世のため、人のためにつくすことに(即ち自分自身のために)人生の信仰の意義があると思います。
 有限なる人間の、限りある知恵のみで、思案をしていては、神のご加護は、なかなか受けられません。そういう方に限って、「毎朝お詣りしているのに、さっぱりご加護をいただけません」とおっしゃいます。
 己の苦も果たさないで、神にのみ報いを求めることは、ごうまんです。即座に己のごうまんをおわびし、神にすべてをおまかせできるまで祈ります。
 そこには、「知恵も思案もありません」例をあげると、恒例の出雲大社のお詣りもそうです。
 春とか、秋とか、気候のよい時にお詣りするのでは、苦を果たすことにならないと思います。又、観光なら、一度行けば、二度と行かなくてよろしい。出雲へのお国かえりは、観光ではありません。夏の暑い時に、誰でも忙しい中を「金と時間をつくり出して(即ち苦を果たして)」親神に、感謝のお詣りに伺うという、その誠の心に、神が喜ばれ、感応なされるのです。
 そこに、心の安らぎと同時に、肉体の安らぎを感じ、御神力のまにまに、お委せできる心になれます。
 「苦を果たす」という意味がおわかりになったでしょうか。
 日々の生活の中でも、苦を苦と思わず、只ひたすらに、神の綱にしっかりおすがりして、大国様の袋に背負っていただき、一人でも多くの方に、大国様の偉大な御力お徳を、わかっていただけるよう努力して下さい。


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