昭和45年4月8日 
第11号
「してあげる」と「させてください」

 世間には、親切な方がたくさんいらっしゃいます。お世話好きで、忙しい中を、くるくるとまめに、人のお世話をなさっている方が、おります。
 病気で苦しんでいる方に、就職に、縁談に、家事の雑多な用事によくお世話をなさる方があります。それは、自分の身、我が家のことのみしか考えてない、多くの人達からみれば、素晴らしい善人であり、「徳」を積まれてる方なのです。
 ただ、ここで一つの心得ちがいをしてしまうと、せっかくの善行も、水泡に帰するだけでなく、相手も傷つけてしまい神の御心にそわない行為になってしまうのです。
 その心得ちがいというのは、「私は、こうしてあげたのだ、面倒みてあげたのだ、お世話してあげたのだ」と「してあげた」という思いあがった心の持ち方をいいます。けれど、神様には「してあげた」という人は少ないですね。「神棚を新しくしてあげた」「神殿を新しくしてあげた」とはいいませんね。
 神様には、「させていただいた奉納された」と申します。それは、目に見えぬ神に対して「謙虚」であるからです。それなのに、同じ方が、人間同士になると「してあげたのに」となってしまいます。
 それは、目に見える肉体だけをみているからだと思います。
 そのお互いの人間同士も、神のわけみたまが授かっているのです。
 お互い様に、「神の子」であるわけです。そしたら、お互いの神の分霊が、肉体に覆われているだけで、その人の過去世、現世の業消滅によって、それぞれちがった形の環境、境遇におかれ、よい地位、境遇にいる人も、悪い境遇にいる人もお互いに、個々の業を消して行き、わけみたまを、より大きく向上させ、元の親に、近づき、神の国を顕す役目があって、生きているわけですね。
 その個々の人間の「わけみたま」に対して「してあげた」ということは、神に向かって、「してあげた」といっているのと同じになるわけです。
 「わけみたま」即ち「神」を考えれば「させていただく」「お役にたたせていただく」という「謙虚」な心で、人様のお世話がなされます。
 これが、本当の職人であり、神が喜ばれる方であり、自分の「みたま」の救われ、向上していくことだと思います。
 さあ、今から「してあげた」を「させていただく」に切りかえることを目標にして下さいませ。
 私も、人一倍「我」が強かったので、「こうしてあげたのに」という気持ちが、家族の者にも、他人様にもありました。
 それは、「だからこうしてくれたっていいのに」という、代償を求めてる気持ちが、知らず知らずの潜在意識に残るわけです。だからその代償が、かえってこないと、「義理を知らない」とか、「薄情」だとかという「愚痴ったり」「そしったり」して、自分の心を傷つけ、相手の心をも傷つけてしまいました。
 しかし、「祈り」によって、神様に、お委せするのだ、という気持ちの中にも、「自分は出来るだけの世話をしたのだから、神様に救われ、相手が神様から、裁かれるのだ」という思い上がった気持ちがなかったとは、いいきれません。
 ありました。そして、自己満足をしてたのだと思います。そこにも、大きな「我」「傲慢」さがありました。
 祈り自体、代償を求めない、ただただ感謝と、懺悔である筈なのです。祈りが、実生活に生かされないで、自分に都合のよい、逃避場になってはいけないのだと、神様から教えられたように、感じました。
 人間同士、すべての、世界中の人が、お互いの「心」を、拝みあい、「させていただく」という感謝の気持ちで、それぞれ与えられた仕事の分野で、信念をもって、励んでいけたらと祈りますが、先ず身近から、家族の者、又、縁ある人達から、実行してまいりましょう。


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