昭和45年3月8日 
第10号
幸福とは

 人は誰でも幸せになりたいと思っています。親は、子の幸せを祈ります。夫婦は、家族の幸せのために努力しています。
 けれど、何が真実の幸せなのでしょうか。今月はみなさまと一緒に考えてみたいと思います。
 家を持ち、家族が各々健康で、その上物質的に不自由のない生活を送れることを、幸せというのでしょうか。
 それでは、家のない人、健康でない人、生まれつき不具の人、貧乏の人は、幸せとはいえないのでしょうか?
 子どものない人は、幸せになれないのでしょうか。という疑問が出てきます。物質的に恵まれ、何不自由のない生活をしている人が、幸せというのなら、その人に悩みや苦しみは、ないわけです。すると幸せとは、外観的に、「あの人は幸せな方だ」と思っても、真実その一人一人の心の中まで第三者はわかるものではないし、又他人にお幸せな方だと思われてみたって、本人にとって、決して幸せでない場合があるわけです。
 物質的条件には、際限がありません。一つの欲望を満たされると、次の段階に又欲が出ます。欲望が満たされない間は、不満が残ります。
 これでは、いつも欲求不満になっているわけですから、決して「幸せ」とは云えないのではないでしょうか。
 「幸せ」とは、他人ではなく、自分自身の心が満足して、感謝できる気持ちになれた時、幸せだなぁと感じるのではありませんか?
 けれど、悪いことをしても、何も気にもとがめないで、その人自身では満足して、感謝している人もあります。
 例えば、人に迷惑さえかけない生活で、自分が満足していられれば、それが幸せでしょうと言い切れる方もおります。
 又、幸せとは、その人その人の個人個人の尺度、主観の相違によって、ちがうものなのだから、人は人、私は私であって、他人に迷惑をかけていないのだから。
 私は、満足して幸せだと思います。とおっしゃる方もあります。果たしてこれでいいものでしょうか。これが、真の幸せといえるでしょうか?
 私は、多少ちがっていると思うのです。なぜならば、自分の「気」のままの充実だからです。そこに傲慢さがあります。
 自分の尺度=主観で計って、人に迷惑をかけないと、言い切れるものでしょうか?
 物質的には迷惑をかけてなくても、「気の負担」をかけてるかもしれません。
 私は、有限である人間の「気」というものは、「気」の親につながった「気」でなければならないと思うのです。
 「気の親」即ち、「神」からの分霊であるところの神性の、気の充実でなければ、真の幸せとは言えないのではないかと思います。
 現実には、絶えず一日一日を、神からの分けみたまである神性にめざめた満足、謙虚な気持ちの感謝で送れる人が、「真の幸せの人」というべきではないでしょうかと思いますが、如何でしょうか。
 物質的条件は、二義的に付随してくると思います。
 絶対的価値観である「神」につながり、わけみたまの充実感、すべてを見守って下さるという安心感、謙虚な感謝のできる生活こそ、生き甲斐のある生活であり、生きていることの喜びであり、幸せにつながると、信じます。


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