昭和45年2月8日 
第9号
「徳」は「得」に通じる

 「徳」とは、目に見えぬ心の立派な能力のことをいいます。目で見ることのできる現世では、報いを求めないで、正しい心(気)のままに、人につくす行為のできる人を、「あの人は徳の高い人だ」とか、「人徳のある方だ」とか申しますね。
 その「徳」とは、一朝一夕にできるものではありませんが、日々大国様を拝み、大きな徳の霊波の波長を交流している私達は、一日一日の積み重ねで、「徳」を積み上げていくことだと思います。
 古人が「一日一善せよ」とありますが、一日を自分の心に悔いなく、生活でき、周囲の人々に喜ばれる生き方は、やさしいようで難しいものです。
 ですから、どんな小さな事でもよいから、身近な小さなことから、人に喜ばれることを実行することです。それも、始めから「喜ばれよう」とか「感謝してもらおう」とか考えないですることです。
 「こんなにして上げたのに、知らん顔して、図々しい」とか、こぼすようでは、善行為になりません。
 「私は、今日はこれこれこういう善い事をしたのです。」と自分から吹聴したり、口から出していうことはせっかくの「徳」が、その瞬間から消えてしまうことになります。
 「徳」を積むことは、神のみ心にそった行為をすることですから、神がすべてをごらんになって、いらっしゃるわけです。
 「徳」とは、これでいいのだという限りのあるものではありません。心の親である神が喜ばれる、これ以上に大きなお返しはありません。
 世間がみとめてくれなくても、つくした人が、裏切ろうとも、問題ではないわけです。「徳」を積むということは、始めから反対給付を求めてする行為ではないからです。
 自分自身の心が、その時、自然につくしたいと、純粋に思われてした行為なのです。人間の心の芯である分霊が働きかけたわけですね。この分霊の働くままに、善事をなること、即ち分霊の親である、神のみ心にあった行為であるわけですから、神が喜ばれるのです。
 神が喜ばれると、どうなるかと申しますと、神はすべてを、おみとおしですから、自分に不足のものを、自然に他から与えて下さるわけです。
 「徳」を積み重ねてゆく者には、現実の世では、事故又は、病気になって、多額の金を出費したり、人にだまされて、大金を失ったり、その他わづらわしいことや、辛いことで出費することもなく、又、精神的にも安心できる「得」をえられるwけです。
 「徳」は「得」になって、かえってくるのです。「徳」は子孫三代まで、つづくといわれています。親が「徳」の高い方は、子孫にまでつづいていく、大きな財産なのです。
 物資=金は、いくらたくさん残してあげても、次の子の代で、一ぺんに失くしてしまうことができますが、「徳」を残してゆくことは、消えてしまわない、大きな「得」を、子に残して行くことだけでなく、自分自身のためにも、「徳」は「得」に通じます。
 現世においても、又、死んだ後も「徳」は「得」です。なぜならば、神が大変喜ばれる行為をなしたものは、自分の心の業、消滅がなされて、白く大きな御霊になられたわけですから、神に裁かれることなく、神の懐に抱かれて、霊の根元にもどれるわけです。
 そして又、子孫によい霊波を送れるわけですね。こんな大きな「徳」はありません。
 限りある身の、現世に生きている中に、一日一善でなく、二善でも三善でも、分霊の能力を発揮して、「徳」を積み重ねてゆく生活を送りたいものです。
 皆様も、ご自分の分霊を大いに活躍されて、神に、隣人に、生きとし、生きるものに、「徳」を積み上げて行きましょう。


最新はこちらから


バックナンバー一覧に戻る



Copyright (C) 2000-2004 IzumoShinyuKyoukai Org. All Rights Reserved.